帯広ニッキ
2005年2月28日(月)■野球(3)

いよいよ待ちに待った因縁の東小との決勝戦だ。自分達はアパッチ野球軍なりの勢いがあったが、かたや東小は落ち着いた大人のチームでいいチームだった。場所も市営球場という、高校野球がプロ野球の2軍の試合でしか見た事のない自分達にすると、もうここは夢の場だ。石なんてもちろんない。芝もきれいだ。ベンチだってコンクリートでしっかり出来ている。大体審判が揃いの制服を着ている事にビクリしているんだから……。

またも入場行進「いや〜気分最高」毎日が決勝戦だったらどんなにか楽しいkとか。試合が始まってしまった。相手の左腕のピッチャーはやはりいい。しかし、こちらも堅守だ。緊迫したゲームになってきている。

守備から帰って来て、何かベンチ内が変だ。キャプテンとしては、より気になるが、試合に集中しなければ……。その次の回も守備から帰ってくると……やはり何か変だ、と、その時ピッチャーの女ケ沢(めけざわ)、メケがちょっと話があると言う。「何だろう、どっかいためたか」心配になる。「あのさぁ、誰にも言わないでよ」「言わない」「古東(ことう)がさぁ、、、」「古東?」古東はメケといつも一緒にいる幼なじみで、すごく無口で、でも体は一番大人で、彼だけは大人の毛がはえていた。とても性格はいい奴ではある。野球は下手だけどメケと一緒なので仕方なしにチームに入れたのだ。だからいつも補欠でベンチだった。「古東がウンチたれちゃったみたい……」「何っ?!!」「どどどどいう事? 今、ここで? 何っ?……」「とてもこのムードでは先生にもトイレって言えなかったみたい……」「そ、そ、そりゃそうだけど……けっ、けっ、決勝戦ですごい人が見てるんだよ……どうする? ばれたら、ただでさえもユニフォームも揃ってないチームだから、出場停止か、没収試合になるかもな、やばいなぁ。ひたすら隠そう」

まさか、人生最高の瞬間にウンコもらす奴がでてくるとは、思いもよらないだ。しかし、今は試合に集中しないと……。でも、そう聞くとベンチ内は相当臭くなっている。先生は気づかないのか? とにかく古東には絶対ベンチを出ない様に命じ、何知らぬ顔で通させないと……。回を重ねる事に臭さは増してきている守備から帰って来る度に、他のメンバーが気づきだした。「古東が?……」みんなビックリしている。そりゃそうだわ。野球――ウンコ。結びつかない発想だもん。プロ野球の選手も使っているベンチでウンコかぁ。古東、お前なんだかある意味スゴイなぁ。と、変に感心していると、なぜだか我がチームは逆転に成功し、最後の守りだ。頭の中の7割が最後整列した時の事を考えていた。古東の家はお金があるので、彼はユニフォームを着ていた。「べっちゃりぬれてオシリわかっちゃうかなぁ?」

こんな時は、すんなり優勝しちゃうもんだ。嬉しいのか、隠さなきゃなのか、頭の中はぐちゃぐちゃだった。整列。古東のオシリを見るとやはりみえみえ。こういう時にかぎって優勝チームだけ、ホームベース上に整列。センター側にあるスコアボードに日の丸が昇っていく。バックネット側にオシリを向けているので、バックネット裏ではなにやら予想以上のざわつき。「やっぱりばれてしまってるなぁ」「ここまで来たんだから、シカトだ」審判長が寄ってきて「キャプテン!!」「はい!!」「なにやらあの彼のオシリぬれているんだが……」「あっ、はい。あれ、あれ、あれは彼が水のみで水のみが水のみ場でころんでしまったんです……」「あぁ、そうんなだ、わかった。いいゲームだったよ」「セ〜〜フ!!」と、心の中で叫んでいた。父兄からパンと牛乳の差し入れが入って、みんなベンチの上側にある、応援席で優勝祝賀雑談。もうみんなにこの事は周知の事実だったので、その話をしていなかった。と、その時マチコー(町田)だけが、知らなかったのか、「コト〜〜〜!! どうしたのよ!! このオシリ わぁ〜〜!!」と同時に右手を古東のオシリに……。瞬時にマチコーは気がついた。「うへぇひあぁ〜〜!!」「ウンコかよ〜〜!!」「何でだよ〜〜!!」俺も教えてほしかった。その後の三角パック牛乳とパンを左腕と左手で同時に持って、食べているマチコーの器用さに感心した。「右手は使えんもない……」古東はそのまんま皆と一緒に自転車で帰っていった。

とんでもない決勝戦になってしまった。しかし優勝した。初の全道大会、すごい快挙だ!! いや、怪挙だ……。つづく


野球(1) 野球(2)

2005年2月25日(金)■北海道のまいうモノ

この前、BSでイタリアの田舎でトリュフを採っているのを放送していた。トリュフ自体、自分はよく知らないのだが、次の年も同じ場所から採れるというので球根なのかな? 小川の緑の木の下によくなるらしい。匂いがとてもいいみたいで、マツタケの様なのかな。その木の種類によって匂いが微妙に違ってくるとの事。面白そう。こっちでは、そんなトラディショナルで素敵なのは、ちょっとないなぁ。ヤマワサビかな、でもこれ西洋ワサビという位で、ヨーロッパ原産の帰化植物だからね。考えたら食べたくなる!! ヤマワサビ、“まいう〜〜!!”あの涙出る辛さ、なんとも言えない。アイヌネギも採りに行かにゃ。最近、ふきのとうの天ぷらも好きだし、んー、トリュフいらんな。

イカ刺し → ヤマワサビ
ふきのとう → 天ぷら
ジンギスカン → アイヌネギ
トリュフ → ?? いらんな。

2005年2月24日(木)■青春時代

最近TVドラマで高校モノをやっていると、ついつい自分の高校を思い出す(またかい)。中学生の頃にドラマで「われら青春」(中村雅俊)をやっていて、新しい校舎、新しい寮、海がちょっと見える高台で熱血先生がラガーシャツの襟を立てて、スックと立っている。いやらしい教頭も必要だし、小ぎれいな女の先生も必要。駅も近くにありたい。大切な物件だ。熱血先生が走って来て「小田!! 行くな〜〜!!」と叫ぶ。後から来たクラス全員が叫ぶ、最後にみんなで大合唱!! これぞ真の高校生だ!! とドラマを見ながら高校はそういうものだと思っていた。

兄が地元の進学校に入っていたので、自分もそんな風に行けるんだと漠然と考えていた。が、漠然というより妄想だった。当たり前、(通知セン)5,4,3,2,1と取って喜んでいる奴が入れるところではなかったらしい。理由…ともあれ、苫小牧の西に位置するxxxという町の高校に入った。寮にも入った。不動産的に言うと、これ以上「われら青春」にあてはまる所もない位の立地条件だった。高台にあり、ちょっと海が見え、新しそうな校舎、駅もなかなか近い、すごい!! これなんだ!! 高校は……。

寮に入寮する。何だろう、ここ……。何かの更正施設か、見かけと中とはえらいちがう。苫小牧の親類のおじさんが一緒に来ていて、「アガアガウグウグ……」と言葉にならない何かを発し、「アリャリャリャ……ヨシが、親戚のヨシがね、苫小牧工業の寮に入った時は……あそこはふつう……だった…よな…ここ鑑別所?」その言葉が全てだった……。夕方になると、ゾロゾロと恐そーなお兄さま達が現れていた。母親とおじさんが帰ってしまうと、本当にキョーフを感じていた。「わ・れ・ら・青春?……」「飛び出せ青春……飛び出す心臓!!」だ。暗くなると気づいたが、高台というより山ん中だ。高校と寮以外は何もない。外は真っ暗。隔離されてるの?

新入生(寮生)は100人位はいた。自分は同じ中学だった先輩2人の部屋に配置された。帯広からそれも同じ中学はめずらしい事で、先輩2人も歓迎してくれた。「小田がここの高校に来るとはな…」「よろしく」ここのシステム、ルール、上下関係をみっちり教えてくれた。先輩が「俺も“われら青春”だと思って寮に入った。実際はね、んー……」もういいよ。

寮では点呼が朝と晩にあり、全員廊下に並ばされ、その部屋の下級の者が、廻って来る先生と日直に「総員3名、現在3名、その他、異常ありません」を早口で言えという事。3年生は天の人、2年生はふつうの人、1年生は奴隷だという事。先輩が見えたらどんなに遠くても、でっかい声で挨拶する事(学校では特に)掃除、洗濯は1年生が必ずする事、外出する時は、先生に行き先を告げ、ガクランを着用する事、寮の中では寮内着(りょうないぎ)を着る事。


まだまだいっぱいあった……。やっぱり少年カンベツショ? 「われら青春」というより、ここは「愛と誠」の花園学園、TVドラマ「スクールウォーズ」だった。その日以来、今日まで“爽やか”という形容を自分に言ってもらった事がない……つづく。

2005年2月23日(水)■パソコン必需品

あらま、すっごい雪。細かくてびっしり降ってる。最悪。車、運転すると前が見えない。こりゃ、事故すごいよ。また雪カキで体ボロボロだなぁ。パソコンを頂いて毎日の様にお花とかのデザイン起こしたりで、デッサンしているが、これってこの画面上だけでしか、見る事も保存も出来ないんだぁ。やっぱりインターネットに入る事は必要になるんだ。それとどうしても(プリンターと取り込みとファックスができる)複合機が必要となり、デジカメが必要となる。お金と涙も必要となる。以前のザマアミロと言ってしまった、Y電機とか、H万Vとか、B電機とかにおじゃまになりまして、お値段の方を拝見させて頂きまして、何度も足を運ばせて頂きまして、最初のは「他店よりもお安くさせて……」と書いてあったものが、今では「何電機の何店よりもお安いです」としっかりと名指しの断定で書かれており、「うぉーーっ!! やれ、やれーー!!」と陰ながら、心ばかりの応援をさせて頂いております。もうホントに買わなきゃ。

2005年2月22日(火)■女の子キョーフ症

初めてラジオで名前を呼ばれた時の話。小6の時、野球をはじめ、何かと目立つ自分だったのかもしれない。玄関でいつも下駄箱の陰にかくれてコソコソしている3,4人の5年生の女の子たちがいる。コソコソだけならいいのだが、俺の顔を見てケラケラ笑うのだ。自分の中ではちょっと矛盾があった。陰でコソコソなのに、直接顔を見てケラケラ笑う。それが毎日の様に……。“どう接すればいいか”と悩んでいた。1人なら無視できるけど、3,4人ともなれば、俺が逆にいじめられてる気分。年下の女の子にか? やっぱり我慢できずに「何だ? 何か用か?」とか「何か文句あるのか?」とか言ってはいたが、反応なくケラケラ笑っているだけ……。限界だった……。2ヶ月位たったある時、ぶっちり切れた。2人位のおしりをけとばした……。彼女らは飛ぶ様にして逃げてった。次の日の夕方、学校から帰ると母親がニヤニヤ笑っている。「人気モノは違うねぇ」「何?」「さっき、ほれHBCのラジオのミスターデーブマンのさ、素人が録音でちょっとしゃべるやつに、光南小学校の6年生の小田徹君に言います。私達をけとばさないで下さい!!って言ってたよ。北海道で光南の6年の小田徹ってあなたしかいないしょ。すごいねぇ。ラジオに出たよぉ」 おいおい、何に感嘆してんだよ。あいつらすごい手に打って出たなぁ。公共の電波で、それも北海道人が一番聞いているラジオ番組でチクリやがったぁ。次の日の放課後、きっちり担任の先生に呼び出され、みっちり説教され、涙の1つも流し、返された。そして、その女の子の家一軒、一軒独りで謝って回った。みんな、自分の家の近くだった。父親が言うには「それは、おまえにほれてんだよ」だった。何〜〜?! それはない、絶対にない、俺にほれてるヤツが人をせせら笑う態度をとるかっての、と、わけがわからん事件だった。

それ以来、女の子キョーフ症である。

2005年2月21日(月)■桃

がっちりと雪が降った為、ソリ大会史上初(?)の延期となり、風邪でジンマシンの自分は命びろいした。身体の調子が悪かろうが、責任者は雪山に向かわなければならない。山岳警備隊長のように? しかし、雪カキの仕事はしっかりと4カ所あるので、クタクタのクラクラ。これでも、昔は体育大学を目指した程なので、体力は……ない。学力、体力ともない!!ちなみに、中学の通知センで、5,4,3,2,1を1度にとった事があ〜〜る!!自慢であ〜〜る!! (でもない? 中々取れないよ)

でも、TVでさえも雪の温度ってわかるね。本州の雪。昨日の雪と今日の雪でも全く違うものになってる。今、あたたかい雪だね。今日の夜の教室の風は桃です。そんな時期、なんです。

2005年2月19日(土) ■ジンマシン

暖かい冬だと思っていたら、最近がっちりと寒くなってる。久しぶりにしっかり雪も降りだしてる。お昼に食べた、ミソラーメンが悪かったのか、ジンマシン。すごい!! 顔が腫れている!! 写真に撮りたい位。猿の惑星に出られるぞ。痒い、かゆい。夜の教室までにこの特殊メイクを調整するので、少し休もう。

2005年2月18日(金)■インフルエンザとタバコ

すっかり風邪をひいてしまった様。ゆうべ遅くまでいろいろネタを考えていたのが、いけなかったのか(お笑いの人?)

昨年ちょうど同じ時期に、生まれてはじめてインフルエンザにかかってしまった。風邪と変わらないだろうと思っていたら、とんでもなかった。熱は上がる一方で40℃を超え、なお上昇。経験した事のないだるさ、病院に行ってなかったので、インフルエンザとは知らず、このままどうなるんだろうと思っているところに、樋口さん(前出)からデンワ。「家の除雪ありがとう」との事。「えーーーー?!」毎年、いつも樋口さんの家の除雪しているけど、「ありがとう」とお礼をもらった事がない。何だこのキョーフ感は。そういえばタバコが旨くない。ゴホゴホになる。“死ぬのか”“死ぬ前兆なんだ”と本気で思えた。デンワはムシの知らせだ。“駄目だ。まだ、このまま死ぬわけにはいかない。生きよう!!タバコやめよう……。ちょっと横になって寝るかな。

病院ですぐインフルエンザとわかり、死ぬどころかタバコやめてピンピンさぁ。死とかキョーフとかムシ? 何?

タバコ(2)
15年前に一度タバコを辞めた事があった。マンガ「亀有公園前派出所」を友人から借りて、そのマンガにとことんはまった時だった。突然、作者が現れて「中高生の諸君、今後一切、両津勘吉にタバコは吸わせない様にするので、君たちもこれからタバコをやめる様に」と説教チックに。はまっている自分は「はい、ははぁーーーー!!」ですぐにタバコを辞めた。(なんと単純バカなんだろうか)それから5年、友人の結婚式の親戚の方の2次会に連れて行かれた。まじめな方々の集まりで、面白くないので盛り上げてくれとの事だった。年配者ばかりだったが、がっちりと盛り上げた。すると、その親戚の中の長であるおばあちゃんが、自分の事を呼んでいる。このおばあちゃんは兎に角、偉いので逆らわない様に、前もって釘をさされていたので、ほいほいとおばあちゃんの横へ。「気に入ったよぉ、吸え!!」「何をですか?」「タバコ、ホレ吸え!!」「イヤ、あのぉ、タバコ辞めてるんすよぉ……」「何おぉ、吸え!!いいから。旨いから吸え」おばあちゃん、何よりもタバコが大好きらしい。執拗にせまられ、仕方なく一本吸った。「旨いじゃろ」「ホレもう一本吸え。おおそうじゃ、二本同時に吸ったらもっと旨いから二本、イヤ三本にすっかぁ……」「ウグググ……」本当に三本同時に吸わされた。これって軽いイジメ

それ以来、昨年までHeavy Smokerだった。おばあちゃん、まだ生きてる?

2005年2月17日(木)■旧い仲間たち

先日、旧い仲間たちと9年ぶりに再会。ぽぷり店時代の事で、大いに盛り上がった。男たちが夕方近くになるにつれ、皆、ぽぷり(かわいい)(花屋さんなのに)に集まって来る。男ばかりで、バイクショップじゃないんだから……と言われた。このホームページのディレクターのあゆ美ちゃんの紹介で、デニーズ(女性)というカナダ人の方をぽぷりの2Fに招いて、週1回英会話も習っていた。デニーズは日本語を話せなく、われわれも英語を話せない(あたりまえ)という訳で、自然と毎回毎回ゼスチャーゲームだった。「これ(手をしっぽのところへ)これ(手の甲をたたく)それ(荷物をかつぐ)それは(のどを指す)」そう。接続詞日本語。てな調子で半年間、デニーズが帰国するまで日本語を教えていた(???)トホホ。

2005年2月16日(水)■200突破!

カウンター数「200」突破記念!!
だからと言って何もないのです。いつも拝読ありがとうございます。なるべく元気が出るような内容と思ってますが……。

高野ランドスケープの河野さんから、パソコン(Mac)を頂き、超アナログ人間も時代の移り変わりに少しでもくっついていく様に努力しなくてはと……。デスクトップですごくいいモノなのだが、キーボードがない。大きい電気屋さんへ……。「おぉ、1200円で買えるんだ。ラッキー!!」と買って帰ってたたいてみても、ウンともスンとも……。又、電気屋さんへ。「お客さん、これは合わないと思いますよ。中々合うのがないんですよ。ウィンドウズの方ならいいのですが。マックの方のキーボードは……」「差し込み口が合っても駄目なんだぁ……」「あまりオススメできません」次の大きい電気屋さんへ。同じく「あまりオススメできかねます」次の大きいお店も同じだった。そういう話を聞いた以上、買って帰るんなら「返品はできません」という事だった。河野さんに相談してみる「差し込みがUSBならどんなのでも必ず合うよ!!」ホンマかいなぁ。トホホ……。最初のヤツ合わなかったし。電気屋さんは強気で「あまりオススメできません」だし。「ん?!」あまり? あまりって何?んがーーーーーっ!!頭がもうグダグダになってきていた。♪ヤマ〜ダデンキ♪と♪コージマ♪が一緒になって♪ヤーマダ♪になって「よし!!わかった。いちかばちかだ。USB対応の一番安い980円のキーボード買ってやる!!」一発発起、清水の舞台から飛び降りる、枯れ木も山の賑わい、和田引水、縁は異なもの味なもの、人を呪わば穴二つ、だ!!(??)私は店員さんのあまりに賭けてみた……。

(後日)ヌハハハハ……私の勝ちだよ、小島くん、いや山田くん。今では何不自由なく(?)暮らしています(?)(まだ、インターネットにはつないではいないのですが、毎日、お花のスケッチ、デッサンに使ってます)

2005年2月15日(火)■野球(2)

6年生になり、間違いなく光南アトムズに入れると思っている自分に全く思いもよらない情報が入ってきた。施設の方で光南アトムズを辞めたいと言ってきているらしい。理由はよくわからないが、施設が抜けると、光南アトムズは消滅する。大人の話に困惑し、もう野球なんてやりたくなくなってきた。チームがないのだから、大会に出られない。監督になる先生もいない。また、元のソフトボール大会に燃えようか。勉強ができるわけでもないし、昨年の汚名を返上しようにもできないし。“あ〜〜あ”

そんな時になぜか、いつもいじめられキャラの田村が「じゃあ、自分たちでチーム作っちゃおうか!!」と。「作るって、作ってどうするんだ? 大会に出られるのか?」「わかんないけど、6年3組で作ってでればいいんじゃないの?」「おまえそんな簡単に言うけど……。いいかぁ。作ってどっかと試合やればいいもんな。そっちの方が楽しいかもな……」人数はすぐに集まった。というより」話が大きくなってきている。「小田くんがチームを作ったから入らないか」の言葉が、一人歩きして全クラスにすぐに回って、そのクラスの上手い人が次々と手をあげて、一緒にやろうと言ってきている。どうもこうもなかった。パニックになっていた。遊びの範囲を超えてきている。みんな、真剣だった。後戻りはできなかった。すると田村が「僕やめるね……」「おまえが言い出しっぺだろ。一緒にやらないと……」「みんな上手な人ばかりだし……いいんだ」追うのはやめた。進もうと思った。やっぱり、こうなったら担任の先生に相談しようと思った。唯一、若くてスポーツマンで野球経験がある担任が救いだった。すぐに快諾してくれ「みんながやりたいって言うならやろう!!」先生がカントクになってくれた。

練習が始まり、何とか形としてチームが成り立ってきた。「先生、あのう……大会に出たいんですけど、どうしたらいいんですかぁ?」「まかしとけ。オレが登録しておくよ」パニックになってから、あれよあれよというまに形ができて、そして大会に出場できる。夢のようだった。先生から名前を考える様に言われ、自分の思いつきで格好がいいかんじだから[光南ブラックスターズ]と命名。後でわかったことだが、相撲で言うと黒星は負けを示すらしい……。いよいよ大会になり、初試合。「最初はグー、じゃんけんぽん」を知らなかった。野球の試合では必ずやるらしい。キャプテンの自分が、みんなの前でジャンケンしたが、最初のグーの意味がわからず、大人の審判の人に「あんたねえ……」とグチを言われた。5,6回やってようやくできた。みんな、このジャンケンで小さくなっていた。たぶん、光南小は誰一人このやり方を知らない……。それとは裏腹に、試合は強かった。買った。次の日曜日もまた買った。その次の日曜も買った。「一般的なルールは知らないが野球は強いんじゃ」と失笑した審判に言ってやりたかった。

学校の先生たちの間で問題が持ち上がった。次の土曜から日曜にかけて、6年生の川狩り(すぐ近くの河原でキャンプ)で、これは学校の行事だからきちんと行わなければいけない。従って、日曜の夕方まで居なきゃいけない。「試合終わっちゃうよ。でられないよぉ」結構、モメたらしい。担任の先生が頭を下げてくれて結着。全員、早退あつかいにしてもらって、でられ宇ようになった。なんかややこしい人たちだと子ども心にも思った。しかし、このおかげでチームにより一層、団結心ができ、強くなった。トーナメントでこの大会だけしかないので、負けは即、解散をあらわすのはわかっていた……。準決勝まで来た。優勝候補で、昨年1回戦で負けた時に〈東小学校〉が相手。自分には因縁の対決だったが……。世の中はやはりうまくいかないらしい。接戦の末に敗れてしまった。でも、すがすがしかった……と、先生が、「小田、何してる。すぐ次の試合あるんだぞ」3位、4位決定戦だという。「いいよ、何位だって」「何言ってる。3位までが十勝大会に出られるんだ。知らなかったのか?」知らなかった……。もちろん、勝ち。十勝大会に出場を決めた。新聞にも結果などがでて、地域では話題になっていた。十勝大会は意外にも入場行進やら何やらで大きい大会でキャプテンとして、これでいいのかな?と思う事があった。ユニフォームだ。練習用ユニフォームを着ていた。いや半分はジャージだ。他のチームは当たり前の様に揃いのユニフォームである。まぁ、しかし買えないのだから仕方ない。やはり大会は背番号だけはつけないといけないらしい……。相手チームは、ほとんど○○○少年団という名前のチームで、親とかオウダン幕とか、応援とか皆さん力が入っているのがわかる。かたや俺ら〈アパッチ野球軍〉相手からすると、笑いがでる位ふざけた格好のチームだろう。しかし、試合をする度に強くなっていくアパッチ野球軍は強かった。あれよあれよと決勝まで来た。さすがに、ここまで来ると日曜ごとの試合だったので、応援も来ていた。相手は、やはり東小だ。本当に因縁だ。

しかし、決勝戦にとんでもない事件が待っていた。……つづく。

○野球(1)はこちら 

2005年2月14日(月)■ベタにバレンタインデー

ラジオでは、バレンタインと何度も言ってるけど、実際どーなんだい?生徒さんからは、頂けたりとかするんだけど、チョコレート……。人生の中で一番人気があったのは、高校2年生の時だったか。誕生日が一月なので、その日クラスの半分以上の女子から誕生日プレゼントを貰ったのが、人生の中での頂点!?(自慢)後はすっきりと下っております。“だいたい、誕生日にあげたので、すぐに次の日にもバレンタインチョコレートって調子よすぎるんだよ!”みたいに、バレンタインは女子からほとんどもらえなかった記憶がある。何か意外とさみしい日……。あまり、楽しい思い出がない日だと気づいたので、アトリエに元気が出る様に、桜(東海桜)と雪柳と小手毬とアオモジを別々のカビンに生けてみました。春だね。でも、何か淋しいカンジ。

2005年2月10日(木)■明日から連休に入りまーす

今朝は寒いの? あったかいの? 最近ってよくわかんないね。車はばりっと2発でエンジン掛かる。20年前なら、今頃の朝はまだダイヤモンドダストだったな。空気中の水分が氷るの。苫小牧方面時代(高校)は、室蘭、登別とか海に面しているので暖かいんだね。あちらの方―高校の時、同級生が、冬休みの前に聞いて来た。「小田、家、帰るの?帯広に…」「帰るよ、家は帯広しかないから…」「俺、行っていい…?」「はぁ、室蘭から来るの?」「うん」「何しに来るの? スキーか?家、何んもないよ」「いや、いいの……寒さ…体験したいの……」「はぁ? 馬鹿にしてんのか?」「いや、ちがう。まじめに…。小田、言ってたでしょ。朝、起きたら部屋ん中で、息で白い輪っこ作れるって…。あれ、体験したいの。そんな寒い所に行った事ないんだよ」

彼は、寒さと白い輪を体験して帰って行った。後に彼は自衛隊に入隊した。予行練習? 八甲田山?

因みに「はぁ?」というのが自分のクセみたい……。

2005年2月9日(水)■野球(1)

いつも通っている、いつものラーメン屋さんが、自分の出身の小学校のすぐ隣にあるので、たまに小学校時代を思い出す(いつも何かを思い出している、かか)。あの頃のみんな何やってるんだろう……。小学校のすぐ近くに親のいない子どもの為の施設があった。そこへプロ野球チーム、ヤクルトアトムズ(現スワローズ)からユニフォームが寄附された。当時はすごくめずらし事だった。どうぞ野球チームを作って楽しんで下さいという事なのだろう。自分が4年生の時で、その施設だけでは人数が足りないので、小学校との合同チームを作ろうという事で、小学校(6年の中)から選抜された人とで光南アトムズという初の軟式野球チームが我が小学校にも出来た。それもそろいのユニフォームで、なんと!!左ソデに鉄腕アトムが飛んでいた!! 彼らが放課後、揃ってランニングをしている姿を見ていると、どこかのプロ野球チームじゃないかと思う位、もう自分の目はまん丸から二重丸になっていた。その頃は自分達の遊びはソフトボールしかなかった。1にも2にもソフトボールで、公園の角の四面はいつも取り合いだった。ようやく買ってもらったユニフォームの背番号は「3」。公園じゅうが「3」と「1」であふれていて、背番号の区別の用を足していなかった。自分はそんな片寄りがイヤでたまらなく、背中の「3」が泣いていた。4年生の自分の眼から見ると「光南アトムズ」はもう大人のチームで最強に感じていた。案の定、帯広大会で優勝した。(しかし、その頃は十勝大会や全道大会などは存在してなかったので、この最強チームは、この大会で優秀の美をもって解散した。

5年生になり、自分達は、上級生となってきて、そんな雲の上の話より、学区間対抗ソフトボール大会に話題は盛り上がっていた。11地区の街に近い自分の地区に6年生はいなく、自分が仕切って、他の地区との合併計画を進めていた。5年生といえども自分も相当、野球が上手になってきている。いい地区と合併できれば、ひょっとするとあれほど夢見て来た、ソフトボール大会優勝だ!! ち密な裏工作を要していた。そんな時に、思いもよらないニュースが飛び込んできた。「小田と女ヶ沢(めけざわ)が光南アトムズに徴集が掛けられそうだぞ!!」との事だ。「はぁ?」「あれぇ? 6年生だけで作るんじゃないの?」「ウソだろ?」「ええ〜〜っ!!」倒れそうだった。しかし、ただの噂だったのか、中々、その後、誰からの接触もない。友達の間では、「ザマアミロ、いい気になってるからだ」とか、「大体、5年生から上に上がれる訳がない」とか言われ放題で、俺とメケ(女ヶ沢)は、マナ板にのったコイの様に大人しく小さくなっていた。“神様、もう何でもあなたの言う事を聞きます。キュウリだって納豆だって食べてみあせます。お母さんの言う事もちゃんと聞きます。わがまま言いません。どうか、夢の光南アトムズに入れてください。おねがいします、アーメン” と、仏壇に拝んでいた。と、どこの神様がどこの方角から見てたのか、きちんとその願いを叶えてくれた。担任の先生が、「小田、アトムズのユニフォーム、渡してくれと頼まれた、ほい」光南アトムズのユニフォームだ!!「ほんまかいなぁ!!」これこそ夢ではないか!!という人生の中で最大の出来事だと思っていた。毎朝、練習に通い、あまり慣れないセンターのポジションをこなし、めでたく、レギュラーで少年野球大会に出場。高校野球よりきびしいのだ。この大会しかなくトーナメントなのだから……。東小のグランドで東小と対戦、アウェイの洗礼を受けた。光南ドリームチームはボロボロに負けた。自分もボロボロ、ポロ、トンネル。あんなにも強いはずのアトムズが、自分が入ったまさかの一回戦敗退。6年生の人は「小田が悪い訳じゃない。気にすんな。おまえら来年がんばればいいんだ」

うれしかった、もうソフトボール大会どころではなかった。 つづく

2005年2月8日(火)■猫目柳

最低気温が−10℃以下にならなくなってきている。あたたかく感じる。道路もべちゃべちゃにぬれて、なんか“ハル”がすぐそこ?にいるのではないの?と。「あ、ふきのとうだ!!」なわけないか。ちょっと用事で遠乗りをしていると、そんな風に道路脇を見てしまう。あと1ヶ月以上は何も出て来ないよね。猫目柳は芽吹いてるかな。ちなみに、山猫柳と書いて“バッコ柳”と呼ぶ。何でだろうか? アイヌ語なんだろう。山猫は北海道にいるの? 小さな疑問。

猫目柳といえば、2年前の3月頃に象(設計)の樋口さんの友人で舞踏家、田中泯(みん)さんが遊びに来るので、(映画「たそがれ清兵衛」の異色の剣客役として助演男優賞を受賞した)、どうせなら踊っていただこうと、しっかりと万年会館に舞台をつくり、自分も玄関の入り口に、猫目柳5m以上のものとか、たくさん周りから切り出して生け込んだり、しばったり、演出をした。特に田中泯さんから、感想はなかったんだけど(“ガクッ”)、夜、ライトアップをされた猫目柳も見ごたえがあり、迫力もあり、北海道の初春の雰囲気をかもしだしたものです。でも、すごい踊りだったなぁ。圧巻!!

2005年2月7日(月)■漁師→花屋という図式

今の時期はワカサギ釣りがいいのかねぇ。一昨年は友人達と何回か阿寒湖に釣りに行って、朝方、たくさん釣ったものだけど、元来、自分はあまり釣りには興味がない。確かに引く感覚がいい感じだけどね。病気になって半身不随で社会復帰など到底無理な父親は車イスやベッドでTVを見ていた。いつも漁師が出る番組や船が荒波に進む場面を見て、「よし、次は船を買うぞ!!」が、口癖だった。

父の故郷は留萌地方にある雄冬(おっとう)という小さな漁村で、そこは自分は小学5年生位まで「陸の孤島」と呼ばれており、増毛(ましけ)という港から船でいかなくては行けない、とんでもない所にあった。自分は子どもの頃に何度も行き、手つかずの大自然を堪能した。自分達で海にもぐってウニ、アワビを採って食べた。まずかった。かろうじて、焼けばウニが食べられるかな?だった。何という事……。父親は19歳までここで漁師をやっていたらしい。戦争があって、親戚を頼って釧路、帯広と来て“花芳(はなよし”のおばの手伝いをして、“花屋さん”という事になったのだ。何もあの辺境の地で漁師をやってりゃいいのに。戦争も何もないだろうが……。漁師→花屋という図式もおかしい。で、病気になった今、「船を買おうか」かい……?

父親が亡くなって7年経つが、毎年の様に雄冬に友達とたくさんでキャンプに行く。今は道も開通して雄冬にキャンプ場なるものもあるのだ。“国道の路肩?”と間違われそうなところだが、すばらしく素敵だ!何年か前にそこの親戚のおじさんと友達とかみんなで酒を飲んでいたら、「徹、知ってるかぁ?」「何を?」「お前のおやじ、何してたかぁ」「何って漁師でしょ」「何こいたもんだぁ。えんず(英二)は密漁やってたのぉ、密漁」「はぁ?」「仲間3人で密漁やって毎日たんまりもうけてたんだぁ」「はぁぁ…」「でもな、えんずの偉いとこは1日、あの当時2万〜3万稼いで全部増毛(ましけ)やここにお金落としたんだぁ。飲んだりしてな。だから、誰もえんずを恨まなかったさ」

(偉いんだかなんだかさっぱりわからなかった)だから「船を買おう」なんだ。それで又密漁? 花屋→漁師(密)

2005年2月5日(土)■鬼

“節分過ぎれば陽は又登る”
と、誰かが言っていたが、そうなる様に少しでも陽が登る道をつくっておかなくては……。

象設計の樋口さんの音頭でいろんな人による廃材を主に使った、保育所をみんなで作った、建てた。ワークショップ型によって学生も多数来た。(もう5年も経つ) 保育士さんとも友達になった。子供とも友達になった?つもりだったが、どうやら俺の顔が恐いらしい……。保育士さんが、「小田徹さんが来たよ」というと子供達がいっせいに保育士さんの陰にしがみつくようにかくれる。年長のリーダーがビビると、その保育所の子供全員がもうだめらしい。だったら、リーダーを余計いじめる。毎度、毎度、クモの子散らす。その年は保育所へ大工の見習いに行った様なもんだった。節分、園長先生から、鬼の依頼。「なんで?」「徹さんしかいないでしょ」「ええ〜? どうすれば?」「いつもの様にただ、ただ子供達をビビらせてくれればいいんです」仕方ない。坂上が青鬼、自分は赤鬼。保育所だけにコスチュームはばっちりある。圧巻はお面でなくて、顔にそのまま色を塗る事だ。坂上は“キ・タ・ナ・イ”だが、自分は“コ・ワ・イ”だ。本物がいればこんな顔だろう。特殊メーキャップでもあるまいし“鬼の惑星”でも映画撮るか? ちょっとリアル過ぎたので園長先生に連絡。「恐い方がよりいいです。子供達が鬼の名前を出したら大人しくなるから1年間それで、しつけられるのです。是非、全員泣かせてください!!」「はぁ? はい」

保育所に鬼登場!! 早くも泣き出す奴、体が固まって動かない奴、「私はいい子です」と言う奴、いろいろだが、ただ全員今まで味わった事のないキョーフに出会ってるのは、確かだ。「悪い子、探しにここに来たどぉ〜!! 悪い子いねぇかな〜!!」秋田? ナマハゲ? 坂上、それ違うべ。保育士さんが「鬼さんは、小田徹さんともお友達なんですよ!」より、一層ビビる! 泣く!(すっごい複雑……俺が小田徹、鬼も小田徹、お前ら、微妙に失礼だぞ……なんか傷つくな……)全員泣かせて、鬼退散!! ビール1ケースもらって普通の車で帰る。歩行者が自分らを見つけて騒然となる。「仕事、しごと!!」言ったってわかんない。パトカーとすれ違う。小さくなる鬼、何か悪いことしたの?


今年は鬼の依頼来なかったな……。

2005年2月4日(金)■ダンボールソリ大会

天気はいいのだが、風がものすごく強い。すぐ上に飛んでいる白鳥の群れが、上、下、左、右になって、彼らに悪いけどオモシロイ。ただ単に、風のせいなのか、みんな一緒に揺れながらってカンジ……リーダー!! がんば!!! 

この話題に触れないといけないかな? 今年は出場しないかなぁって感じだった…が、急きょ出場決定したので。忠類村ダンボールソリ大会!! 出ちゃうよ話。5年前から我がチームは毎年、出場している。忠類村にある小さなスキー場で約100m位のゲレンデを、ダンボールのソリで低いジャンプ台1つを越え(これがミソ)ゴールする。という単純なもので、スピード部門とパフォーマンス部門とに分かれ、メインはパフォーマンス部門なので、もちろんパフォーマンスの方に出場。最初は何も知らなかったのだが、全てダンボール、又は紙で作らなきゃいけないという事で(下の滑走する部分のみビニールを使用していい)。骨組みもダンボールだと知ってちょっと困惑。すぐに考え直して、“じゃあ、逆に紙とダンボールだったら危なくないのでクラッシュした方がおもしろい”と前向きに。製作担当者は、いつも自分とコンビを組んでいろいろ仕掛けている谷内さんだ。頭の回転は速いのだが…没頭ばかりしているので、人の話を聞いていない、頑固、モロモロ。でも、楽しくなると感じたらすぐ実行する行動力はすごい。ユーモアとアイデアもあるからありがたい。後は坂上(前出)とパフォーマンスには欠く事のできないムシャニーだ(武者の兄だから)。天然になるお笑いが体のどこかしこに……他の3人を加え初出場!! 自分はカントク。ソリは“サンダーバード2号”で6人分の席を作り、国際救助隊の衣装まで作って、全員で敬礼をしながら滑って行くと決めた。順番を待つ、谷内さんと2人で“クラッシュ”の仕方、ソリの方向を検討。スキー場を下から見ると右側が全て観客席なので、右方向は危ない。左方向は谷になっているが、落ちない様に大きな壁がゴールの近くまで長くある。2人で決めたのは左側。ジャンプ台を越え、すぐに壁にぶつけクラッシュ!! 進入角度を間違えるとケガ人が出るかもしれないと、他の人の滑走を見てると思った。し、何年か前、カトウちゃんペ!!の格好でお亡くなりになった方もいるからだ。初出場、慎重を要した。出番だ、方向を決めソリを出す。滑り出す。皆、敬礼。直進力はあったが、方向がずれてる。もうすぐジャンプ台、失敗か? その時、ムシャニーが思ったより恐怖を感じ、ジャンプする瞬間にソリを破り外に飛び出したのだ。“おぉ!!”と観客。図体のでかいムシャニーが横への重さを掛けた為、ソリは逆にモトの方向に修正された。すぐに壁にぶつかり“クラッシュ!!” ダンボールはのサンダーバード2号はこなごなに…。観客が今までで一番沸いた!! 大成功だ!! 皆、最後のお約束の敬礼(ムシャニーも追いつく)ニュースの為のTVクルーの人達にインタビューぜめ……。100m、10秒位の事なのだが、秋頃から最初の製作をはじめ、苦労も多い。昨年などはベタ雪が降りつづき、ソリが雪水でボロボロ、バットマンカーとバットマンがただの黒いカタマリに。そんなのでも、文句一つ言わずに作業をする仲間達。アホだ。又、今年も出るの?おかしいって……。

2005年2月3日(木)■ぽぷり(2)東京編

東京は、修学旅行で来た事あるけど……まぁ、なんとかなるさで、とりあえず今回は“よろしくお願いします”との挨拶だけをしてこいとの事なので、六本木のお店に行きゃいいだけだから……その当時アンティーク物が好きでわざわざ小樽のアンティークショップで買った、寅さんと同じ様なバッグを持って、そのまま恵泉園芸センターに着いた。

「北海道の帯広の花栄の小田と申します。よろしくお願いします!!」と、いきなり言った。急ぎすぎたか、お店じゅうシ〜〜ンと。ありゃま、空気を読まずにって感じ。と社長らしき女の方が現れて「あれっ、来たの?」“?”「断ったでしょ。きちんと断ったでしょ!!」“??”(カバンを見て)「相当、田舎から出てきたのねぇ。まぁ、向かいの喫茶店でコーヒーでも飲みましょ。こっちはきちんと断ったんだから……」店を出た瞬間、何が起こったかわかった。《奴だ。あの野郎、話をつけてあるだとぉ〜〜!!ってそんな場合じゃない》土下座せんばかりに、もう何でもやってやるってとこで、喫茶店に着く30m位は、「何でもします!! 返さないで下さい!! こんな形で家に帰れません、よろしくお願いします!!」と何度も頭をさげた。変な意気込みが出ちゃって、女社長さんは、「わかったから、わかった。もういいよぉ!!ウチはね、全国各地からそういう研修生みたいなの、かたっぱしから、きっちり断ってんの!! だいたい、ウチは女子大の出張所的なお店だから、男を雇うなんて出来ないなぁ……んー…何でもするのね……」「ハイッ!」「丁度、今日と明日、一年でも一度あるかないかの大きな仕事の撤去があるのよ。夜に銀座の阪急デパートにいらっしゃい。それから決めるわ」と意外にもすんなりチャンスをくれた。ド田舎モンが東京に来て、いきなり六本木から銀座だもん。張り切るし、自分の考えてた通り2日間の仕事は、女の人ばかりなので、力仕事だったから、大袈裟とも言える程、男の筋力を見せつけて働いた。案の定、合格!! 


その夜、六本木の中華料理店で打ち上げ。しっかりご馳走にもなり(席の5m位向かいに、TVドラマ「毎度おさがわせします」でデビューしたての中山美穂がマネージャーらしき人に囲まれてこちらを見てた。隣の人に「あの〜、あっちにいる女の子、中山美穂ですよ。こっち見てるよ」「誰それ?」「あれ知らない?! 今ドラマに出てる女の子ですよ」「ふ〜ん」“ずっと俺をみてるよ”自意識カジョーか、と、こんなおまけまで付いて)天国なのか、地獄に堕ちそうだったのか、訳のわからない東京になった。その後、六本木で働くのだが……。

○ぽぷり(1)はこちら→

2005年2月2日(水)■ばあちゃん

なごやか亭(回転寿司屋さん)のディスプレー作品(冬バージョン)をようやく納める事が出来て一安心。ひとり打ち上げで、いつもの大好きなラーメン屋さんへ。立川淡志の“ラーメンは600円まで”というサインがあり、その言葉は他のお店に行く時の目安になっている。このお店、たま〜〜にちょっとおしろいの匂いがする時がある。あずましくないが、今日はその日らしい…でも、このにおいがばあちゃんを思い出す瞬間なんだ(変な時だけど……)

ばあちゃんは、背は低いのだけど鼻筋がバリッと通って黒目のところがブルーだった。そう、ほとんど外人顔。よくその顔で戦時中いじめにあうわけでもなく、生きてこれたなあと思う程である。母方の祖母でどうやら母にはその特徴は移らなかったらしい。きちんと、空気坑が2つ上を向いている……。あの外人顔の歴史をひもときたいのだが、岐阜産以外の key word は何もわからなかった。名はカタカナでコマノ。よくダイレクトメールで小田コマイ殿と来ていた。“うちのばあちゃんは、魚かこのヤロー!!”と言いながら、自分1人で裏で喜んで“カンカイさん”と呼んでいた。(コマイを干したものを、カンカイを呼ぶらしい)お乳もそんな感じだったし……。

中2の時、街のまん中に一緒に住む様になって田舎系のばあちゃんは、何か淋しそうだった。楽しみは週1回のプロレス中継!! 孫達にテレビ番組をとられ追いやられる様になると、お店にある小さなテレビでひっそり見ていた。“何か知らんけど好きなんじゃ…”兄の子供が産まれ、ばあちゃんは少しボケに入る。いつの間にか、俺の名前を忘れ、ひ孫の名前だけしか言わなくなり、“ばあちゃん淋しいよ”と思ってる間に、ボケは本格化。誰の顔かもわからないまま、焼かれていった。ばあちゃん、好きだったなあ。おしろいの匂いだったんだね。

●更新→第一回個展ページ

2005年2月1日(火)■桜
寒ぶいわぁ。頭がかたまってる。霜で。真っ白くなっている車を見たら笑うよ。“白のベルベット地の車だった?”って。花屋さんの方ときたら、これがまたきっちりと入ってました。“桜”ですよ。旧暦では春だからね。旧暦“エゾ”も入れる?東京に住んで桜を見たら、そりゃそりゃもう……。帯広で桜を見ても“ん〜〜、大きいジオラマ?”って、違うもん。別もの。歴史カンジル。東京の九段の夜桜を見た時、“なんで夜、桜見なきゃいけないの?”だったのが、“……!!!”あの色、今まで見たことのない、感じたことのない木の花、言葉にならなかった……。と、その下で皆さん方大宴会。外国の方から見て、あまり日本を……とか言われてるけど“何を言ってやがる”“お花を感じて大宴会だ!!”
いいなぁ。その時から北海道は別の国なのではないかと思っている。

窓の外では保育所の園児が雪山からソリに乗ってすべっているよ。春、ハル。
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